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2021.11.10

「市田柿」と名付けられて100周年 市田柿の歴史を紹介

市田柿の加工作業も順調に進み、天竜峡の紅葉リーズンの中で鮮やかな柿のれんが作業場のハウスいっぱいに並んでいます。

飯田下伊那地域の名産となった市田柿は今年で100周年となります。
干し柿の歴史は500年といわれており、「市田柿」と名付けられて100周年となるまでの歴史をご紹介します。

市田柿100周年記念

渋柿の歴史は古く、奈良時代から栽培は始まっていたといわれています。
日本にはヤマガキなど自生していたという説もあるそうですが、市田柿にもちいられている渋柿は奈良時代に中国から伝わったと考えられているとのこと。渋柿からはじまり、生食用の甘柿は日本で改良されたものだといわれています。

柿は食用としてだけでなく、緻密な木質が好まれて高級用材としても利用されてきました。古くは東大寺の正倉院にも、カキノキ科の木材を使った厨子「黒柿両面厨子」や献物箱「黒柿蘇芳染金銀山水絵箱」といった数々の宝物が納められています。

 

干し柿に年貢がかけられるほど生産量が増えて

江戸時代に入り、飯田下伊那地域での「串柿」の生産が盛んになります。年々串柿の生産量も増え、飯田下伊那地域では年貢として穀類の次に干し柿による収入が多かったこともあり、干し柿にも年貢がかけられていたといわれます。
「桃栗三年柿八年…」ともいわれる柿は種から育てると収穫までに何年もかかってしまうことから、この時代に「接ぎ木栽培」も始まったといわれます。
現金収入を得やすい作物として干し柿を作る農家は増えていきました。

 ※串柿とは、皮を剥いた渋柿を竹串に刺して吊るす方法で干す干し柿のことをいいます。

 

市田柿の原木は伊勢神宮から

1800年のはじめ、市田郷(今の下伊那郡高森町下市田)の人々は伊勢神宮への崇拝は広がります。伊勢社の境内に一樹の神木焼柿の古木があり、この柿は焼いても乾柿としても美味しいと伝え、この木がいまの市田柿の原木といわれる「神木焼柿の古木」といわれています。

このころ飯田下伊那地域では立石柿がつくられていましたが、下市田周辺では江戸時代後期にかけて伊勢社の焼柿評判が広まるにつれ、村内の立石柿は台木となり、焼柿を接ぎ木しての栽培が始まっていきいます。
ある古い日記には、9月から11月にかけて「柿落とし」「柿さし」「柿つくり」といった記述も見られ、日中に男たちが木をゆすって柿を落とし、夜には家族や親戚、近所中が集まって柿むきをして、翌日に柿を串に刺して乾す様子が記されていたそうです。

 

「市田柿」と命名された1921年

1907年(明治40年)上沼正雄さんが現在の下伊那郡高森町の中心地区に焼柿の苗木を200本植え、約2ヘクタールの柿栽培を始めます。柿の木が成長するまでの間、正雄さんはすでに柿の産地として知られていた山梨県、岐阜県、福島県などを視察し、柿の栽培方法や商品化の研究を重ね、ついに1921年(大正10年)当時の壮年団であった橋爪正農夫さんと酒井安さんと協力して、それまでの「焼柿」を地元市田村の名前をとって「市田柿」と名付け、東京、名古屋、大阪へ出荷を行います。

しかし、結果は失敗…売れませんでした。

正雄さんはその後も諦めず研究を続けて市田柿の商品価値向上に努められました。その後、息子の鉄男さんが市場への進出を実現させます。

上沼親子の焼柿栽培への熱意と、苗づくりや接ぎ木技術の発展に貢献した福沢親子、果樹栽培の技術と人脈から市場へのPRに尽力した橋爪氏、地域に市田柿の栽培を積極的に働きかけた当時の壮年団長を務めた酒井氏、など焼柿の美味しさに魅了されて商品化まで発展させて先駆者たちがいたからこそ、今の市田柿がこうして名産となっているのですね。

当時のパッケージは杉板の箱に干し柿を並べ「市田柿」上沼農園というラベルが貼付けられていたそうです。
長く続いている並べられたパッケージは、そのころからの名残なのでしょう。

 

皇室への献上も

昭和に入り、戦争が始まる頃は果樹が贅沢品とされ浸食が禁止されたため、長野県内の柿の作付け本数も戦前に比べて半減してしまいます。

しかし、食料不足の戦中戦後は、市田柿は糖分補給や菓子の代用として珍重されます。子供たちは柿剥きの手伝いを行い、そのお駄賃に剥いた皮をもらって乾燥させ、渋みの抜けた皮をおやつ代わりにしていたといわれます。

また、女子青年会の代表が上京し、靖国神社、明治神宮、山階宮家などへ市田柿を献上します。そのことが各新聞に取り上げられて市田柿の名前を全国に広める一助をなります。献上は、1944年(昭和19年)と1945年(昭和20年)にも行われています。

 

品質向上に努めた技術の開発

主に自家用に生産されていた市田柿は、天候や気候の変化により色や硬さの仕上がりにばらつきが出てしまうため、品質向上につながるよう研究され加工方法の統一化が図られていきます。

まず取り入れたのは硫黄燻蒸です。硫黄を短時間で燃焼させ、発生した二酸化硫黄で燻蒸する方法です。皮むき直後に行うことで殺菌と漂白作用が働き、カビ予防や鮮やかな飴色に仕上がるといった効果が認められました。福島県で生産されている「あんぽ柿」などですでに大正時代から導入されており、上沼正雄氏らが取り組んでいました。市田柿の品種に合った硫黄の使用量や薫蒸時間、干し上げ時の品質などが調べられ、市田柿に適した硫黄薫蒸法が農家へ普及されます。見た目が秀逸に仕上がる燻蒸市田柿は高値で取引されましたが、設備の投資や作業工程が増えることへの抵抗などで、農家へ定着するまでには10年ほどかかったといいます。

その後、残留量などの調査が行われ、食しても影響のない分量が定められました。

次に柿の木についての優良系統の選定が行われていきます。
それまで栽培されてきた柿の木は、その年によって収穫できる量や柿の実の大きさなどにバラつきがでており、出荷量の安定をはかるために良い柿の木の基準を設けたのです。その優良母樹から穂木の配布が行われ各地に広まります。こうして市田柿の実の出来具合が安定していきます。
また、土手などで栽培されてきた柿の木も果樹園への植栽が広まり本格的な果樹栽培となっていきます。

 

進化する加工用機器

市田柿の作り方①のブログでも紹介しましたが、時代とともに加工用機器が進化し続けています。

片方の手でハンドルを回しながら、もう片方のてでピーラーを持ち、柿にそっと当てて皮を剥く仕組みの皮むき機でも画期的だったものの、今ではお皿に柿の実を乗せるだけで全自動で皮むきを行ってくれる機械にまで発展しています。

吊るす作業も、いつ落ちてしまうかわからない縄の隙間へ差し込んでいたものも、フックに差し込むだけでよい柿のれんができたことで、柿の実が落ちず、作業もとても簡単になりました。

今後もしかすると、柿の皮を全自動で剥いて柿のれんに吊るされて出てくる機械が開発されるかもしれません。

 

市田柿の出荷形態を袋詰めに

市田柿と名付けられた1921年に初めて出荷した際は、杉板の化粧箱に25個~50個詰められていました。杉箱は秋田杉を使い、米を接着剤に使って組み立てていたという話が残っているそうです。

昭和に入ると紙の折箱が登場します。紙箱も木箱も組み立てた箱にはワラを敷き、市田柿を並べてさらにワラを詰めてふたをしていたようです。
ワラは緩衝材の役目と殺菌効果があったのでしょうか。

戦後、秀品は化粧箱、優品や良品は大きな木箱に詰めてのバラ出荷となります。木箱の組み立て作業はとても重労働なうえ、濡れないように室内に保管しなくてはならず、さらに市場や小売店からは、「衛生的でない」「量り売りが面倒」といった苦情も寄せられ、包装改善は急務となります。

そして登場したのがダンボールとセロハン袋です。折りたためて保管にかさばらないダンボールと、水は通しても細菌は通さないセロハン袋は当時画期的だったにちがいありません。
1957年(昭和32年)に出荷形態が統一されます。セロハン袋に150g入り、ダンボールに50袋詰めとされ、市場や小売店からは好評で、これをきっかけに東京方面への出荷量が飛躍的にのびました。

1973年(昭和47年)からは150gから200gへと増量され、このころから手間のかからないパック詰めが始まります。

現在は、脱酸素剤を入れてシーラーをかけることでカビの発生を防ぐことができ、チャック付きの袋とすることで開封後の保管も衛生的になりましたね。また、ギフト用の化粧箱は1つ1つ個包装されたものが多く、食べたい分ずつ封を開けて食べられるパッケージに変わってきています。

 

 

ブランド化を目指しての厳しい品質管理

進化してきたのは機器だけではありません。

市田柿は自家用の保存食として作られていましたので、出荷が始まって50年経ったころもまだ自宅の庭や玄関先の軒下で皮むき作業をして干して、座敷で揉み作業をおこないました。パック詰めも家族全員でコタツに入ってテレビを見ながら作業をし、次の日の朝、農協の選果場へ出荷するといった流れでした。

今思えば、猫や犬を飼っている家庭もいましたし、軒下では鳥や虫が飛んでくるということもあったでしょう。

JA では、その後、市田柿の加工所はきちんとわけ、干し場は天井のある部屋かビニールハウスとすることを指導します。出荷された干し柿は全て検品され、品質の悪いものや異物混入を厳しく管理し生産者へ指導を行っています。

こうして2007年(平成19年)には地域ブランドとして価値や生産力向上にむけて「市田柿ブランド推進協議会」が設立され、市田柿の基準が設けられたほか、栽培から加工に関する研修会や衛生管理の徹底、ブランドとしてのPR活動などが活発に行われました。さらに2016年(平成28年)市田柿はGIつまり地理的表示登録され、飯田下伊那と上伊那の一部で生産された干し柿のみが市田柿として販売できるように管理されました。

 

 

まとめ 100年を経て全国的に広まった市田柿

市田柿の歴史はとても古いことがわかりました。伊勢で食べた干し柿を気に入り、気に入ったものを自信をもって伝えたいという思いがこうして「名産品」となったのでしょう。
そして生産性を求めて自動化していけることへの発展、消費者の立場になって売り方の工夫、流通先の確保への信念、そうした進化が今まで市田柿を絶やさず、絶やすどころか広めてきた要因となったと私は思います。

後継者不足と言われる昨今ですが、JAや地域の農業生産法人が一丸となってこの市田柿を継承し続けていかなくてはならないと考えます。

温暖化が進行し、柿の加工シーズンの気温の高さが柿加工に影響する近年、加工方法にも変化が現れています。ただ自然の力を借りるだけでなく、柿乾燥施設の設置や加温庫の導入など、これからは干し柿といえども加工工場で作られるドライフルーツ化となっていくかもしれませんね。

歴史ある市田柿の美味しさを保ち、時代とともに進化させていける時代でもあるのかもしれません。

 

 

 

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